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つれづれなるままに・・・

日々の思ったことを綴っていきます。

可能性という名の未来

なんというか死にそうなくらい忙しい毎日。
工場は年明けからすっかり暇になって土曜日休むか~なんて言っているが事務員はそれどころじゃない。毎日残業、休みなし。年末と同じく帰ったらお風呂入ってごはん食べてバタンキューです。
本や雑誌が届いているんですが時間がないため手もつけられない。寝る前にちょっとNHK杯かGPFを見るくらいです。

NHK杯の良さはCMもなく変なあおりVTRもなく淡々と演技が見れること。GPFはその辺はとっても残念だが人数が少ないので10分15分ちょっと見るには都合が良い。2.3人あるいは4.5人見て眠っています。
そんな生活を1週間してきてふと気がついたのは一番見ているのがGPFのボーヤン・ジンのFS演技であること。案外見ながら寝てしまうのでその後のフェルナンデスや羽生を見た覚えがないことが結構あったりもしている。でもボーヤンの演技はしっかりと見ているんだよなぁ~不思議。

 

GPF直後には思わなかったが正月休みでゆっくり見返したときに感じたことがある。ボーヤンのFSを見ていると羽生の初GPFFSを思い出すのだ。タイプも演技も全然違うのに何でだろう?とその時は疑問に思ったのだが日が経つうちにそういうことなのかなと自分の中で答えが形成されていった。


羽生が初めてGPFに出たのは2011年のこと、最初にロミオとジュリエットをFSで使っていたときだ。旧ロミジュリというとニースロミオを上げる人が多いかもしれない、ある意味羽生結弦と言う存在をシニアではっきり印象づけた大会だ。ただkamiyann的にはニースよりもGPFのロミオの方が好きだったりする。ニースロミオはもがくロミオ、GPFロミオは道を拓こうととするロミオそれが私の印象だ。この子は将来ものすごい選手になる、初めてそれ実感した演技だった。


2015年GPFのボーヤンを見て羽生を思い出すのはこの感覚に近いものを抱いているからかもしれない、そう気がついたのだ。

 

ただしボーヤンと羽生は全く違うタイプの選手だ。羽生は良くも悪くも主人公タイプだ。初GPFで4位だった当時まだ決して大会の主役ではなかったが、その時でさえそのタイプは変わらない、将来必ず世界チャンピオンになるそう印象があった。それ以降勝っても負けてもいい演技でもそうでなくても羽生結弦が主人公属性でなかったことは一度もない。大阪で開催された四大陸選手権で2位になったとき新聞の見出しで「惨敗」と書かれてしまったのも当時まだ世間的にその認識がなかった中でも潜在的にその要素をみんな感じ取っていたからなのだろうと後から思ったものだ。真っ白な世界を羽生次第で深紅にも蒼碧にもなる、その気が強くなれば黄金の炎のように圧倒する。壁に当たる困難が絶え間なく襲う苦闘するそれでも乗り越えて実績を作る、それこそが物語の主人公であり同時に多くの共感者と相反する敵(アンチ)を作り上げてしまう側面も常に持っている。

 

ではボーヤンは?
現時点ではボーヤン・ジンは主人公ではない。だからといって脇役でももちろん端役でもない。では何か、と問われれば彼はまだ何物でもないと私は思う。ジュニアのタイトルも持っているのに、シニアで現在誰も成功できない4Lzを飛んだという実績を持ってさえボーヤン・ジンは何にもなっていない、ボーヤン・ジンという名前だけを持った存在。

そういう意味では羽生とは違った意味で恐ろしい可能性を感じる。羽生が真っ白を基調としてその日・その場次第で色や世界を変えるのに対して今のボーヤンは全くの無色、何の色も持ち合わせていないのだ。

 

中国杯SPで久しぶりにボーヤンを見たとき、切れはあるけど情緒も艶もへったくれもないタンゴだなと思った。かつてプルシェンコが滑った曲である。オマージュのように似たような動きがいくつもあるのに匂い立つような色気も情感も何もなかった。そのキレキレとした動きが何に近いかと言えば男子の器械体操だろう。様式美のみ余計な付属を一切はぎ取ったものが魅せる美しかなかった。

残念ながら曲を使い表現することも点数になるフィギュアスケートにはそれはあまりにも物足りない。動きをするだけではない余韻や情緒・予感あるいは雰囲気というものを伝えていくためにはどうすれば良いのだろう、これは案外難しい課題だと中国杯の時点では思っていた。

NHK杯・GPFときて基本的にその印象は変わりない。ただGPFまできたときこの何もなさが逆にものすごい可能性に思えてきたのだ。何かきっかけがあって、あるいは本人の意識やモチベーションが変わって覚醒したときこの存在はどういうものになるのだろう?それは全く予想できない未来だ。

思ったほど大成しないかもしれない・求められた基礎スケーティングなどの改善ばかり行って小さくまとまってしまうかもしれないその可能性も確かにある。

でも願っていきたい、ボーヤン自身が本当に望む世界を見いだしたときこれまでに見られなかった新しいスケートの可能性が拓かれることを。羽生結弦が基礎に裏打ちされた高い技術力と個性から生まれる芸術性を兼ね備えた演技を魅せたようにいつかボーヤン・ジンが彼にしか出来ない何かを作り上げることを。

羽生結弦がニースロミオで存在を確立させたのが4年前、オリンピックの2シーズン前という今年同じ状況だ。四大陸や世界選手権でどんな演技が見れるのか―――可能性という名の未来は予測が出来ないだけに期待が膨らんでいる。